名古屋甚句について

【蟹江尾八 名古屋甚句 発掘・採譜曲】

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名古屋甚句は、「旧名古屋甚句」と「正調名古屋甚句」の2つに分けて考えられます。

旧名古屋甚句

「旧名古屋甚句」は、文化12年(1815年)の「東海道中膝栗毛補遺」の中に「芸者殺すには刃物はいらぬ、甚句止めれば皆殺し」と、城下町から宮の宿にかけて巷で唄われていたとあり、明治10年(1877年)頃が最盛期であったようで、福田屋の「甚鍵」が有名であったと記されている。

一説には、名古屋枇杷島あたりから、新内節と説教祭文を組合せた「説教源氏節身振手踊芝居元祖」と称したものが出来、一般には「源氏節芝居」と呼ばれ、二代目小唄錦春の後見、錦春寿氏が語ったと書いている。

そこに岡本美代治という美声の女弟子がいて、明治8~9年頃、芸者として出ており「名古屋甚句」が上手いとの評判で、甚鍵とともに人気があった。その後間もなく芸者をやめて「源氏節芝居」に戻り、幕間にこの「名古屋甚句」を唄い、それが大受けし全国的に流行したのは、日清戦争後の明治28年以降であった。しかし甚鍵の死とともに、明治末期ごろ衰退した。

後に服部悦夫氏は、昭和27年、当地の俗曲の大家「湯浅升人」の話として、明治10年~24年ごろまでは「相撲甚句」ばかりで「名古屋甚句」は聞かれなく、聞かれるようになったのは明治27~28年ごろからであり、甚鍵、荒ふくが創始者という説は定かでないとも語っている。

この「名古屋甚句」は、三味線を本調子で弾いているため、一般的には「本調子系の甚句」と思われているが、古い資料や旋律の構成、それに詞形から考察すると、二上り甚句が旋律的変遷して、本調子化したものと考えられる。江戸を中心として流行した「二上り甚句」が各地に伝承するに従い、三味線伴奏から離れて歌われていた時代に旋律的変遷を起したり、「相撲取甚句」や「そうじゃおまへんか系」の影響を受けて本調子化したと、千藤幸蔵は「じんくの系譜」で書いている。なお旋律的変遷については、千藤幸蔵の邦楽学理の中で詳しく解説している。

また、荒岩関のレコードを聞いても、旋律は二上り甚句であり、題名が「名古屋甚句」であったことから推察すると、元々は力士が土俵などで歌う素語りの唄に、名古屋の芸者が本調子の伴奏を付けたことになる。

「名古屋甚句」命名については、明治6年(1873年)、当時幕内力士の高砂が角界革新を志したが、そのトラブルで破門となり、同士を集めて名古屋にこもったことがある。その中に、美声力士がいて「相撲甚句」をお座敷で歌い、それが芸どころ名古屋の芸者衆により、三味線唄にアレンジされ、「名古屋甚句(尾張甚句)」となったものだという。

正調名古屋甚句

先に記した、岡本美代治が評判を呼んだのは、明治10年ごろである。高砂一行が東京に引き揚げたのもこの頃であり、この「相撲甚句」が後の「正調名古屋甚句」の曲想に影響を与えていると考えられる。

「正調名古屋甚句」については、昭和27年、名古屋市文化財調査保存委員会により、名妓連(当時は名古屋芸妓株式会社)の登代子(三味線 きぬ)(「とよさま」と呼ばれた)の唄で、「前唄二節」「本唄一節」「名物一節」をビクターで録音している。

後に「正調名古屋甚句保存会」を組織したのは、昭和39年、名古屋邦楽協会理事長の高木栄一郎氏である。発会に際し、当時花柳界以外の者には教えなかった「名古屋甚句」を一般に開放した。その弟子第一号として「甚光」長屋光子が、昭和50年に「甚登代」の声に合わせ、キーを下げ歌い放送された。

この唄についは、歌詞、順序が厳しく制限されていた。出は「伊勢音頭」、次いで「前唄」、「本唄三題」、最後は「名古屋名物」で終わるのであるが、前唄の「さらばやぁ・・」を抜いたのは実におかしい。甚登代さんが「甚鍵さんは、私が芸者になったときには、もう亡くなっておられましたが、太りじしの方で、相撲のまわしを付けて『名古屋甚句』を歌われたそうです」といわれ、「相撲甚句」を調べてみると「伊勢音頭」に当るものが「寄せ太鼓」で、「前唄」は「まくら唄」として二題あり、「さらばやぁ・・・」もあったという。

このように「旧名古屋甚句」と「正調名古屋甚句」の経緯を見ると、「二上り甚句」くずれの「本調子さわぎ唄」が明治の後期に衰退し、昭和に入り名妓連により、お座敷に相応しい組唄風「名古屋甚句」を正調として、現在に至っている。

ひとつの唄がいろいろな唄と融合しながら整理され、一般に受け入れやすい唄に仕上げられてきたというのが実状のようである。

※この文をまとめるにあたり、千藤幸蔵師の「じんくの系譜」、服部悦夫氏の「中部圏の民謡を訪ねて」を参考にしました。
(平成21年4月  蟹江 尾八)
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